先に戻れというアイオンの命に従って、ラヴァはアイオンが構える居城の一室でひとり声もなく佇んでいた。
 知らず噛み締めた唇からは、血が滲み始めている。それすら構わずに、ラヴァはギリッと奥歯を鳴らし、固く握った拳で壁を殴りつけた。
「くそ……っ! あの忌々しい魔女めが……!」
 以前から目障りな商人魔女を、薬でヒキガエルの姿に変え、アイオンの前から永遠に消す。
 ラヴァのその作戦は、予想を越えて手練れていた魔女の前に、メドゥーサの死体を転がしただけの結果しか生まなかった。
 魔女をヒキガエルにするどころか、手下のメドゥーサを失い、あまつさえタイミング悪く現れたアイオンに、事の全てを知られてしまった。

 愛想笑いを振りまいて、アイオンを陥れようとしていた商人魔女。魔王になるため過酷な道を歩む魔王候補生であるアイオンのため、ラヴァは魔女を消してしまおうと決意した。
 しかし、ラヴァがそう考え、そして実行したことを、当のアイオンは快く思わなかったようだった。
 言い訳は無用とばかりに、ダンジョンの奥深くの部屋で先に戻れと命じられた。
 ラヴァの罠に引っ掛かり、のこのこと出向いてきたあの魔女がヒキガエルとして暮らすはずだったあの薄暗いダンジョンで、今頃魔女はアイオンに何を吹き込んでいるものか、知れたものではない。

「アイオンさま……」

 ラヴァは純粋に、敬愛する魔王候補生の無事を祈った。
 所詮魔女など人間の味方に過ぎない。魔族であるラヴァやアイオンの信頼を得る資格などは端からないのだ。
 アイオンだって、それは判っているはずだ。あの魔女がどんなふうに振る舞おうが、騙されることはないはずだ。
 ラヴァは心の中で何度も何度も、祈るようにそう思った。

 胸の中に浮かんでは消え、浮かんでは消える祈りのような思いの狭間に、ラヴァ自身が認めたくもない疑惑が沸々と湧き上がる。
 あの商人魔女に出会ってからというもの、アイオンは変わってしまったようにも思える。
 アイオン絶対主義であるラヴァがそう思うくらいなのだから、口には出さずとも仲間のディスも、そう考えているだろう。

 夜にもなれば、あの商人魔女の店へ出入りしているようだし、時折ラヴァたちの世界では見慣れないものを持っている事もある。
 さすがに、店主と客を越えたやりとりはしていないと思いたいが、一切の無駄を嫌うアイオンが、ああも足繁く通うのには、「品物」ではない何か別の目的があるのでは、と邪推に走ってしまう。

 アイオンさまは、あの魔女を――。

 それ以上は、考えるのもおぞましかった。
 ラヴァは自身の不敬な考えを振り切るように首を振る。そんな訳はない。相手は魔女、所詮は棲む世界が違う生き物だ。
 ましてや魔法も使えぬ出来損ないなど、アイオン様が信頼していらっしゃる筈がない。

 そう信じたいラヴァだったが、膨らんだ疑惑はけたたましい警鐘を鳴らしながら、ラヴァの中で今にも弾けようとしていた。
 あの忌々しい商人魔女は、いつかアイオンの信頼をその手に握るかも知れない、と。

 ふいに、背後に立つ気配を感じ、ラヴァは振り返らぬまま背筋を伸ばした。壁に叩きつけられた拳も、そっと下ろす。しかし、固く握ったそれをほどく勇気はなく、彼女は苦渋に満ちた顔で俯いた。
「……アイオンさま……」
「言い訳があるなら聞こう」
 背中を静かな声が叩く。声音がいつもより冷たく感じるのは、アイオンの言葉に棘があるからではなく、自身の後ろめたい感情のせいだと、ラヴァは思った。

「いいえ。……出過ぎた真似をいたしました」

 アイオンの顔は、今のラヴァには直視できなかった。
 故に不敬にも振り返らぬままに返されたラヴァの答えを気にする様子もなく、アイオンはフン、と鼻を鳴らす。どうやら、これ以上のお咎めはないようだ。
 もっと厳しい叱責を覚悟していたラヴァにとって、アイオンの反応は肩透かしでもあったが、それをどこか当然と思う自分も確かにいる。
 あの魔女が何を言おうと、アイオンが魔女の味方をすることはない。種族という決定的な隔たりがある魔女とは違い、自分はアイオンと志を同じくし、魔族として共に生きられるのだから。

「ラヴァ。ひとついいか」

 唐突なアイオンの問い掛けに、ラヴァはハッと我に返り、そのままの勢いで振り返った。そこではいつもと同じ金銀のヘテロクロミアが、まっすぐにラヴァを見つめている。
「なんでしょうか、アイオンさま」
「何故サララを狙った?」
 何の気もなしに、ただ問い掛けただけの、他愛もない言葉だった。
 だが、ラヴァにとってはそうではない。ラヴァが魔女の命を狙ったのは、他ならぬアイオンのためだ。魔女は所詮、魔族の味方にはなり得ない。今は愛想よく振る舞っていても、裏では人間の勇者や騎士と共謀し、何を企んでいるか知れたものではない。

 アイオンに、それが判らないはずはなかった。
 誰より何より「魔王」として誇り高いアイオンが、たかが魔女などを心から信頼するはずがなかった。

「アイオンさま……あの女は、魔女でございます故……」
「サララの事なら心配ない。アイツが私に牙をむくことはない」

 その一言に、ラヴァの中で何かが音を立てて崩れていく。
 恐怖にも近い何かが、足元から這い上がってくるかのような、嫌な感覚。今聞いた言葉を、聞き返したいようで絶対に聞き返したくない、そんな混乱がラヴァを一呑みにした。
 言葉が出てこない。
 わなわなと震える口を開けたまま、何も言えずにいるラヴァを訝しく思ったのか、アイオンの双眸に不思議そうな表情が広がる。

ラヴァは一旦唇を噛み締め、喉を絞るようにして声を上げた。
「な、ぜ……」
「?」
「何故、アイオンさまはあんな魔女を信頼なさるのですか!? 私こそ……ッ!!」

 あなたをお慕いしているのに。

 喉元まで出掛かったその言葉を、ラヴァは寸前で飲み込んだ。
 アイオンが「どうした?」と聞いてくるが、それを俯き無言でかわす。滅多に深く言及しないアイオンは、この時も「そうか」と言ったきり、それ以上ラヴァに詰め寄ろうとはしなかった。
 いつもは淡白すぎて切なくなる彼の性分が、この時ばかりはありがたかった。

 飲み込んだあの言葉を言ってしまったら、アイオンはきっと聞くだろう。
 この、ラヴァがアイオンに抱く感情の名前を。忠誠でも畏怖でもない、この感情を何と呼ぶのか。

 アイオン自身気付かない心のどこかで、それを知りたがっている彼は、いつものように「そうか」と簡単に引き下がってはくれないだろう。ラヴァが答えるまで、アイオンの詰問は続くだろう。

 そして自分は、きっと言ってしまうのだ。
 誰より何より、この片翼の魔王候補生を愛しく思っているからこそ。

「ラヴァ? 調子でも悪いのか?」
「いいえ……」

 魔王としての欠点である、アイオンの無自覚に優しいところが、ラヴァは好きだった。
 それが今日ばかりは、こんなにも痛い。

 こんなアイオンだからこそ、この感情の名前を知ってはいけない。
 知ればきっと、すぐに彼は気付いてしまうから。
 賢しくも愚かに、あの魔女に惹かれているだろう自分に、きっと気付いてしまうだろうから。

「失礼、いたしました。何でもございません。仰せのままに、アイオンさま」

 アイオンは様子がおかしい部下を一瞥し、小さく頷いてその場から掻き消えた。
 独りになりたい。そんなラヴァの胸中を見透かしたのだろうか。
 どこまでも優しい魔王候補。だからこそ惹かれたし、だからこそ見捨てておけない。
 そのため自分がどんな辛酸を舐めることになろうとも、ラヴァはその身が尽きるまで、アイオンと共に歩むだろう。

 その隣に、自分が並ぶことは決してなくても。

 アイオンの気配が完全に消えるのを待って、ラヴァは静かに膝をついた。
 頬を流れていく何かが、ぱたりと床の上に落ちる。薄暗い色をした床にしみこみ、すぐに消えたそれのように、いっそこの気持ちがどこかに沁みてなくなればいい。

 噛み締められたラヴァの唇から、淡い血の香りが漂った。

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