第一部

 迷宮を抜けてアーチを潜れば、既にお茶会は始まっているようだった。

 ネムリネズミと帽子屋がアクロバティックにお茶を楽しむ様を見て、シロウサギが苦笑を堪えられないのはいつものことだ。

 だが今日はそれより気になるものがあったために、シロウサギが常の苦笑を浮かべることはなかった。

「何を怯えているのだね、チェシャ猫?」
「……なんのことだい?」

 アーチから少し離れたところで、チェシャ猫はにんまりと笑ってとぼける。
 しかし、先程シロウサギは確かに見たのだ。
 シロウサギを見るなり、あからさまにビクッと肩を跳ねさせて、怯えたように後ずさったチェシャ猫を。

 彼に危害を加えた記憶など、シロウサギにはない。
 怯えられる理由も思い当たらない。

 チェシャ猫の反応、言葉。あらゆるものが心外だ。
 ゆっくりと近付くと、チェシャ猫は逃げようとはしなかった。

「僕が何かしただろうかねぇ?」
「なんのことだい、シロウサギ」
「……いいや。どうだい、チェシャ猫。暇ならお茶会に付き合わないかね?」

 お茶を飲みながらでも、話は出来る。
 赤い目をにっこりと細めて笑うシロウサギに、猫はにんまり顔のまま、しぶしぶと言った感じで頷いた。

 ***

「そりゃお前、白薔薇と間違われたんだろ」

 表面張力バッチリのティーカップを受け取ってすぐ、先程の話をチェシャ猫に振ったところ、意外にもお茶会の主催者から返事があった。

 白薔薇?と首を傾げるシロウサギに、主催者である帽子屋がいかにも少年らしく生意気に胸を張る。

「アーチの白薔薇、なかったろ?」
「あぁ……そう言えば」
「猫が刈り取ったんだ。鬱陶しいってさ」

 なぁ猫、と帽子屋が話を振るが、チェシャ猫はにんまり顔に露骨なまでの不快感を漂わせてそっぽを向いた。

 刈り取ったばかりの白薔薇と、白い毛並みのシロウサギを間違えたのだという帽子屋の話は真実だろう。
 チェシャ猫の不機嫌丸出しな反応を見て、シロウサギは確信する。

 白薔薇はチェシャ猫の天敵だ。
 刈り取ったばかりの天敵がまたすぐに生えてきたとなれば、確かに驚きもするだろう。

「しかし……よく無傷で済んだねぇ、チェシャ猫?」

 白薔薇は血を吸って赤くなるが、彼らの好物は猫の血だ。

 迂濶に近付きでもしたら、帽子屋や自分ならいざ知らず、チェシャ猫だけは逃がして貰えそうにない。

 しかしそっぽを向いたままの当の猫からは、痛手を負った様子はなかった。

「……熱湯……」

 むにゃむにゃと呟くのは、ひとり夢の中にいるネムリネズミだ。
 相棒の寝言を聞いて、帽子屋が何か思い出したようでポンと手を打つ。

「あーそうそう。猫の奴、お茶用の熱湯を薔薇にぶちまけやがったんだよ」
「……ネムリネズミがよく許したものだねぇ」
「や、もう止める間もねぇの。おかげで今お湯が足りな……ッてぇ! ネムリン痛い!」
「お……ゆ……」
「今沸いたよ! ネムリン痛い痛い痛い!」

 帽子屋の手にぐっさりとフォークを突き刺したネムリネズミは、更に容赦なく突き刺したフォークで肉を抉っている。

 見ればネムリネズミの前にあるティーカップはとっくに空っぽで、シロウサギはさもありなんと苦笑を浮かべた。

 戯れているお茶会組は放っておくとして、シロウサギはやたらと大人しいチェシャ猫を振り返る。

 チェシャ猫はチェシャ猫でお茶会をそれなりに楽しんではいるようで、ティーカップの中身はもう殆ど残っていなかった。

「……白薔薇が少し気の毒だねぇ。あれは彼らの愛情表現じゃあないのかね?」
「アリス以外には食べられたくないね」

 素っ気なくいい放つチェシャ猫は、いつものにんまり顔を崩さない。

 猫は生来ワガママだが、この子は加えてちょっとお馬鹿さんだからいけないねぇ。

 むしろ鈍感と言うべきかと、シロウサギは苦笑する。
 お茶会を中心に絡まった透明な糸が、光に照らされて煌めくのが目に見えるようだ。

 この糸をほどこうかどうしようか迷ったが、きっと自分は何もしないのだろうと思い至り、考えを中断する。

 シロウサギが口を出すことでもないし、チェシャ猫もネムリネズミも帽子屋も、そして白薔薇だって口出しされるのを嫌がるだろう。

 シロウサギは静かにティーカップを傾けた。
 今日のお茶は酷く甘く感じて、自分が楽しがっていることを彼はようやく知ったのだった。

第二部

 白薔薇は血を吸って赤くなる。
 特に猫の血は、白薔薇にとってこの上ないご馳走だ。

 故に自身の天敵でもある白薔薇に、猫はゆっくりと歩み寄った。
 片手に、銀のポットを提げて。

 日頃から猫は白薔薇を疎んじていた。
 別に赤に拘っている訳でもないくせに、しつこく絡んでくる白薔薇は鬱陶しくて仕方がない。

 他の住人の言うことはある程度聞くくせに、自分がやめろと言ったところで、そのつるが緩められたことなど一度もないのだから尚更だ。

 猫は知っていた。
 白薔薇は血以外の液体を受け付けない。水ですらも嫌うのに、沸騰した湯をかけられたら。
 いかに捕食者として名を馳せる白薔薇と言えど、無傷でいられる筈もない。

 そのため、猫はお茶会のテーブルの上にあった、熱湯が入ったポットを提げていたのだ。

 剥き出しの害意を纏わせて近付くチェシャ猫を見ても、白薔薇は動じない。

 かと言って常のように、貪欲につるが伸ばされることもない。

 これから自分の身に降り注ぐ灼熱を知っていながら、白薔薇はそれを甘んじて受け入れようとしている。
 少なくとも、猫の目にはそう映った。

 猫は白薔薇のアーチの前に立ち、にんまり顔で首を傾げた。

「……大人しいね」

 語る口を持たない白薔薇から言葉での返答はない。
 しかし、ふと甘い香りを白薔薇からかぎ取って、猫は更に首を傾げた。

「……ヨロコビ?」

 白薔薇は香りで意思を伝える。香りは彼らの言葉だ。
 生憎猫はあまり彼らの言葉を知らなかったが、それでも大体のニュアンスは判る。

 彼らがチェシャ猫に向けたのは、明らかな歓喜の香りだった。

「おかしいね。これから引き裂かれるって言うのに」

 明らかな殺意を口にしても、白薔薇の感情は揺らがない。
 細かいニュアンスが判らないせいで、猫は彼らの歓喜が理解出来ず、白薔薇の感情に反比例でもするようにだんだんと無性に苛立っていく。

 バカにされているのかと思う。
 チェシャ猫はにんまり笑ったままで、熱湯を白薔薇にぶちまけた。

 歓喜の香りが立ち込める。
 それを振り払うかのように、チェシャ猫の鋭い爪が素早く白薔薇を薙ぎ、引き裂いていく。

 全ての白薔薇がアーチから姿を消した後もむせかえるような香りは消えず、猫はどうしたって白薔薇を好きにはなれないと、改めて認識したのだった。

 もしも猫がもう少し賢しかったなら、白薔薇の言葉を隅々まで理解出来たなら。

 いくら鈍感な猫でも、気付いただろう。
 白薔薇の狂気じみた歓喜は、自分へ向けられた想いそのままだと言うことに。

 白薔薇は猫の血だけでなく、存在そのものを好んでいるのだ。
 故に猫から与えられるものなら喜んで受け取る。

 甘い血でも、己を殺す熱湯でも。

 しかし、白薔薇の愛情がアリス一筋の猫の心に届くことはあり得ない。
 それを白薔薇は判っているから、猫の何もかもを拒まない。

 手に入れられないのなら、少しでも近くに。
 自ら歩み寄る事の出来ない白薔薇は待ち続ける。

 我らがアリスを象徴するように、決して返されない想いを、胸にギュッと抱いたままで。

第三部

 ネムリネズミはその名の通り、一日の大半どころか99%を眠って過ごす。

 相棒である帽子屋などは慣れたもので、眠りこける傍らのネムリネズミを相手に、常からひとり上手だ。

 そのため『帽子屋とネムリネズミのお茶会』は大抵帽子屋ひとりのお茶会と化しているのだが、この日は少しだけいつもと違った。

 ネムリネズミが起きている。
 しかも、割と活発に動いている。

 珍しい相棒の姿を、帽子屋は優雅にお茶など飲みながら遠巻きに眺めていた。

 滅多に出さないやる気を出したらしいネムリネズミだが、そのやる気はお茶会には回されなかったのだ。

 では何に精を出しているかと思えば、白薔薇のアーチ作りだ。
 何処からか持ってきた白薔薇にアーチをのぼらせるべく、ネムリネズミは奮闘している。

 元々外へ繋がる危険な迷路の存在を知らせるために白薔薇がアーチを守っていたのだが、先日白薔薇を嫌う猫が根こそぎ刈り取ってしまったため、アーチはしばらくただの枠だった。

 白薔薇がいなくとも、見張り役として自分たちがいるからいいやと思っていた帽子屋だが、ネムリネズミとしてはいただけない状況だったのだろう。

 帽子屋はネムリネズミを手伝うでもなく、彼の白薔薇のアーチ復元作業を見守っていた。

 帽子屋としては手伝いたいが、手伝えないのだ。
 何故か白薔薇を手懐けているネムリネズミと違って、迂濶に近付けば帽子屋は血を吸われてしまう。

 故に彼は最愛の相棒の邪魔だけはしないように、遠巻きにアーチが出来上がって行くのを見つめるだけだった。

 白薔薇のアーチが何とか元通りになったと同時に、お茶会のテーブルに戻ってきたネムリネズミはばたんと倒れた。

 力の総てを使い果たしたのだろう。
 出来れば休ませてやりたい帽子屋だったが、生憎こんなに疲弊したネムリネズミを寝かせたら3日は起きないに違いない。

 帽子屋は心を鬼にして、半分夢の世界に旅立っているネムリネズミの耳を引っ張った。

「ネムリン、ちょっと聞きたいんだけどさ」
「……な……に……?」

 ぼんやりとした声で応えるネムリネズミは、明らかに鬱陶しそうな顔をしている。

 帽子屋を無視しなかったのはネムリネズミの良心だろう。
 有難いことでと心の中で手を合わせて、帽子屋は行儀悪く肘をついたまま口を開いた。

「わざわざ白薔薇のアーチを戻したのは、白薔薇の恋路の応援? それとも……猫避け?」

 今にも眠りそうなネムリネズミが、帽子屋の言葉に滅多に開かない目を開けた。

 じっと帽子屋を見つめるつぶらな瞳は、夢の深淵でも覗いているかのように見える。

「……さ……ぁ?」

 しばらくの沈黙を挟んで、ネムリネズミは億劫そうに首を傾げた。
 悪戯っぽく微笑んだ口元はすぐにだらしなく緩む。

 完璧に眠ってしまった相棒をちょんとつついて、帽子屋は苦笑するしかなかった。

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