チェシャ猫は珍しく緊張していた。
けれども口元のにんまりに大した変化はないだろうから、出会ったばかりのアリスに気付かれる恐れはない。
しかし猫の不安は、自分の緊張がアリスに伝わったらどうしようとか、そんな高尚なものではなかった。
どうしようかな。
考えかけて、どうしようもないやと猫は考えるのをやめる。
「どうしたのチェシャ猫……早く公爵夫人のところに連れてって」
自分の肩の上にある小さな少女に急かされて、猫はあっさりと覚悟を決めた。
公爵夫人に近付けば、ぱっくり食べられるのは間違いない。
アリスが何故そんな事を望むのか、チェシャ猫にはさっぱり理解出来なかったが、まぁアリスがそう言うのなら従うしかないだろう。
それにしてもアリスはおかしいなぁ。
チェシャ猫はのんびりと考えた。
食べられるなら、綺麗に食べて貰いたいと思う。
食べる側の立場に立って考えても、あんなふうにがっつくなんて、みっともない。
餌を目の前にしてもすぐ口はつけない。猫のジョーシキだ。
アリスはあんなふうにがつがつ食べられるのが好きなのかな?
公爵夫人がばりんばりんとお皿を噛み砕くのを聞きながら、チェシャ猫は更に考える。
確かにあんな食べ方をしてくれるのは彼女くらいのものだろうけど、アリスの好みは判らない。
僕の方が上手に食べるよ。
どうせなら僕に食べられればいいのに。
いや、いくら公爵夫人でも、さすがにアリスを食べる時くらいはお行儀よくするだろうか。
ああなった公爵夫人が行儀よくアリスをつまみ上げるところを想像してみるが、猫ののんびりとした想像力では覚束なかった。
ところで僕も食べられるよね。
せっかく僕はおいしいのに。
気が進まないが、アリスをひとりで行かせる訳には行かない。
どうせならアリスが僕を食べればいいのにと、メビウスの輪の如くループするチェシャ猫の思考を破ったのは、猫の名を呼ぶアリスの声だった。
「チェシャ猫?」
「まぁ……君が望むのならそうしよう。僕らのアリス」
「どうしたの……いつにもまして大げさね」
アリスはそう言って軽く笑う。
ヘンなアリス。
僕に食べられるのは嫌がるのに、あんなのに食べられたがるなんて。
あぁ、僕と一緒がいいのかな? と、それらしい理由に思い当たり、それは悪くないなとチェシャ猫は思った。
アリスにそうだね、と返しながら、にんまり笑ったまま公爵夫人に向かっていく。
アリスと一緒なら悪くない。
猫のにんまり笑顔が深まった。