遠く。
それは過去か、未来か。
『アリス。わしらのアリス』
声がした。
しわがれた、穏やかな声だった。
『気をおつけ。猫は甘い言葉であざむくよ』
アリスは首を振った。耳許で木霊するその声を振り切ろうと。
『かわいそうに……猫を信じておるのか』
アリスは激しく首を振った。声は哀れみを帯びて、アリスの鼓膜を揺らし続ける。
やめて。
悲鳴は、声にならなかった。
自分が振り切りたかったのは穏やかで優しい芋虫の忠告ではなかったのだと気付いたのは、アリスがいちばん聞きたくなかった音が彼女の耳に飛び込んでからだった。
芋虫の身体は、無惨にもにんまり笑う猫によって赤く潰された。
彼の身体が宿した生命。何とかにも五分の魂と言うが、やたらと美しく語られるそれが潰れる音は、あまりにも醜く耳障りだ。
聞きたくなかったのはこの音なのだと、アリスは赤い視界の中で思う。
鮮血色の向こう側には、にんまりと笑う猫が佇む。灰色のローブの殆どは、アリスの視界を埋める赤と同化していた。
「芋虫さん」
虚ろな目に潰れた芋虫だけを映して、夢見るようにアリスは呟く。
緩やかに膝が折られた。座り込み、白い指を芋虫に伸ばしかけたアリスを見つめて、猫はやんわりと彼女の動きを制止した。
「アリス、手が汚れてしまうよ」
「……そうね」
小さく頷きながらも、アリスは芋虫にそっと触れた。
ぬるりとした感触。指先に触れる血は、まだ温かいような気がした。
「アリス」
優しく咎める声に、アリスはようやく手を引いた。
立ち上がりながら、頬を伝う温かいものに気付いて手を添える。
血だと思ったそれは、自分の涙のようだった。
猫に担がれて道なき道を進みながら、アリスは声もなく涙もなく泣いていた。
猫と交わす声は震えておらず、浮かべる笑顔に曇りはない。
それでも、アリスは泣いていた。
脳裏には潰れた芋虫と、穏やかな忠告の声がこだまする。
――あなたは、チェシャ猫の何を知っていたの?
アリスの頭の中でも潰れてしまった芋虫は、その問いに答える事はない。
芋虫の声は繰り返す。猫は甘い言葉であざむくのだと。幻の声は、ただそれだけを繰り返す。
――私よりたくさん知っていたの? チェシャ猫の悪いところを……もしかしたら、いいところも?
「アリス」
「なぁに、チェシャ猫」
「どうしたんだい? さっきから、何を考えているんだい?」
「チェシャ猫の事に決まってるじゃない」
からかうようにアリスは言って、猫の頭に抱きついた。
笑顔の裏に隠した泣き顔を悟られないように、灰色のローブに顔を埋める。
暗くなった視界に、再び赤い芋虫が浮かび上がった。
――ねぇ……知っていたの?
『長い付き合いだからのう』
決して聞こえない筈の声が答えるのを、アリスは平然と受け入れる。
幻でも妄想でもいい。
芋虫の言葉を聞きたかった。
『猫はとてもわがままでなぁ……』
――それにしては楽しそうに話すのね。
『……付き合いが長いと情も涌くよ』
――あなたなら……チェシャ猫を止められたかしら。
『……アリス。わしらのアリス』
――チェシャ猫を止めて。助けて……。
振動を感じて、アリスは闇から引き離された。
灰色のローブが視界を埋め尽くす。振動はチェシャ猫がふいに立ち止まったためだとすぐに気付いた。
「助けてって、何のことだい?」
アリスのすぐ下から、チェシャ猫がいつもの調子で尋ねた。
芋虫の幻との会話を知らず口に出していたようだ。それに気付くと同時に、アリスは自分が泣いている事に気が付いた。
「アリスは……助かりたいのかい?」
「……馬鹿ね」
流れる涙はそのままに、誤魔化すことをやめたアリスは軽く握った拳で猫の頭を叩いた。
「言ったでしょう? チェシャ猫の事に決まってるって」