幼い頃、アリスは猫を怖がった。
何故彼女が猫を怖がるのか。その理由は不思議の国の誰もが知るところだったが、それは大した問題でもなかったので、誰も口にしなかった。
問題は、アリスが猫を恐れていること。その一点だけだ。
猫はアリスの恐怖を象徴していた。
大きく裂けた口。
そこに覗いた牙。
不気味な灰色。
ローブに隠された眼光は、アリスが最も恐れた故に決して晴れない闇を抱え込まされた。
猫は幼いアリスにとって、魔物も同然だった。
ハリネズミたちと異なり、異形の姿を与えられたのも、それが原因だ。
「故に、『導く者』には猫が適任でしょう」
もうひとりの異形である、真実の番人は厳かに告げる。
脆すぎる真実の塊を見つめながら、猫は自らに下された宣告を、至極どうでも良さそうに受け止めた。
「何故なの」
当の猫を置き去りにして、可憐な声が尋ねた。
大鎌を手に桃色のドレスを翻した少女から、殆ど義務感だけで投げられたその問い掛けに、真実の番人は恭しく首を垂れて答える。
「アリスは猫を恐れています」
「だから?」
「『導く者』はアリスから遠くなければなりません。アリスを導くためには、彼女との絶対的な距離が必要です。冷静さを失わないためにも」
「アリスが『導く者』に信頼を寄せすぎても良くないからね」
納得したように頷いたのはドレスの少女ではなく、その隣に座る白いウサギだった。
「もしもの時は、アリス自身が歩まなければ道は拓けない。……頼まれてくれないか、チェシャ猫」
忌まれし己にだからこそ託された役目。
猫は自らが立つ、真実の法廷をぐるりと見渡した。
赤い目でまっすぐに猫を見つめるシロウサギ。
不機嫌を隠さないドレスの少女。
表情の読めない真実の番人。
その他大勢の住人たちが、猫の返答を待っている。彼が逆らえないと知りながら。
「……君が望むなら」
たっぷりと沈黙を含んでから、猫は誰にともなく呟いて『導く者』の役目を受諾した。
遠い記憶を思い出して、猫はひとり笑った。
あの場にいた者はみんな大たわけだ。もちろん、己も含めて。
幼いアリスは猫を恐れた。けれど、それは不変の真実ではない。
誰もがそれを失念し、猫を『導く者』に祭り上げた。
『導く者』はアリスから遠い。真実の番人の次に、アリスからの影響を受けず、アリスに影響を与えない。
アリスが自ら進むための道しるべ。
『導く者』とは、そういうものだ。
「アリス。僕のアリス」
血まみれの口で、猫は歌う。
その足元にはいたるところが噛みちぎられた誰とも判らぬ骸が転がる。
アリスは猫に近付きすぎた。
遠い存在であるはずの猫に、彼女はあまりに笑顔を投げすぎた。
何故誰も、こうなることを予想出来なかったのだろう?
忌まれし猫が好かれる事を知った時、天理は崩れた。
信頼の一念で伸ばされる手を取った時、役目という鎖は散った。
にんまりと満足げに笑う大きな口から血がしたたる。
灰色のローブを染めていく芳醇な香りに、赤くなりかけた猫は鼻をひくつかせて、暗い天を静かに仰いだ。