くぐもった嗚咽が聞こえる扉の前で、コナーは静かに目を伏せた。鍵はかかっていなくても、固く閉ざされた寝室の扉を開ける術を、コナーは持たない。

 かつてキッチンのテーブルの上にあった一枚の写真は今、ハンクの寝室のどこかに隠されている。コナーとスモウの目が届かない独りきりの部屋の中で、ハンクはきっと毎晩のように写真の中の笑顔と向き合っているのだろう。そっと写真立てが伏せられる音がすることもあれば、今日のように押し殺した悲愴が響くときもある。

 子を亡くした親の悲嘆は、どこまでも深く痛ましい。自分の命より大切なものを喪った瞬間、世界は覚めない悪夢へ変わる。亡骸を前にこぼされる「どうして、この子が」という問いかけは、墓の前でも繰り返される。どこからも答えが返ってこないことを悟ると、淀んだ昏い情念が生贄を求めて沸き立ちはじめる。やり場のない憤りや抱え込んだ無念は、この死に関わったすべてと己に向けられる。この子が生き返るならなんでもする。俺が代わりに死んでもいい。だから頼む、誰か、どうか。――願いが聞き遂げられることは、決してない。そして悪夢はより深く昏く形を変えて、遺されてしまった者は苛まれ続けるのだ。一筋の光すら届かず、終わりもない絶望に。

 ハンクがコールを亡くしてから経った時間は四年足らずとまだ短い。我が子を喪った悲しみを数十年もの間抱えこんでしまう人間がいることを考えると、ハンクの心が癒えるにはまだまだ時間が足りないのだろう。

 疲れが溜まっていたせいか、ハンクがたった一杯のウイスキーで酩酊してしまったときがある。椅子に座ったまま虚ろな目をして、なにかを求めるようにテーブルを上を探っているハンクにコナーは思いつくかぎり色々なものを差し出した。カトラリー、食べるもの、携帯端末、グラス、酒瓶。そのどれもが軽く掴まれることさえなく拒まれてやっと、ハンクが探しているものはあの写真立てなのだと気が付いた。気が付いた瞬間、コナーはハンクを抱きしめていた。

 泣けばいいのにと呟いたコナーに、ハンクは力なく笑って涙なんてとっくに枯れたと言ったが、そんなわけがなかった。彼の胸中には悲しみが今もこんこんと湧き続けていて、心は決壊寸前だ。その想いはとても人間の言葉に変換出来るものではなく、どうにかして放出するには涙を流すしかない。それなのにハンクが泣けないのは、涙が枯れたからではなく、彼自身が自分に泣くことを許していないからなのだと、コナーは思った。

 だから泣いてほしかった。ただ悲しんでほしかった。どこかの誰かやハンク自身が「もうこんなに経ったんだ。いつまで泣いているつもりだ?」と言ったって、ハンクが悲しくて泣きたいのなら何十年経とうと泣かせてあげたい。代わりに自分を責めて傷つけるような真似をするくらいなら、いつまででも泣いていてくれた方が、ずっとよかった。

 コナーがハンクの家に居座るようになってからすぐ、涙も流さず虚ろな目をして写真を眺めていたハンクから迷わず酒とリボルバーを取り上げた。かつてハンクが息子とあたたかい食卓を囲んでいた場所も奪って、彼を寝室へと押しやった。心無い所業だと糾弾されても構わない。ハンクが自分を責めて殺す可能性を少しでも減らせるのなら、心なんてなくていい。彼を腫物のように扱うことしか出来なくなるなら、感情だってない方がいい。死の淵をふらふらと危うげに歩く彼を恐れず触れられるから、冷たい機械の身がちょうどいい。

 コナーは目の前の扉に手を触れ、額を寄せた。コールの名を呼ぶ声なき声が、扉一枚を隔てた向こうに響いている。

 コールを亡くしたハンクがコナーと出会うまでの三年間、彼の命を繋いでくれていた要の一つ、デトロイト警察署はコナー自身にも所縁がある場所だ。完全に部外者となってしまった今のコナーには用のない場所だが、ハンクの職場だということもあり依然としてその重要度は高い。ハンクとの会話の中でベンやギャビンの話題が出たりクリスには服を貰ったりと、縁は今も繋がっている。

 ハンクのもとに身を寄せてから一度だけ、コナーはデトロイト警察署に赴いたことがあった。急な呼び出しを受けて慌てて家を出たハンクが忘れていった昼食を買いものがてら届けに行ったときのことだ。受付にいる型番ST300のアンドロイドはコナーのことを憶えてくれていて、入るなり向こうから声を掛けられた。

「まあ、懐かしい顔ですね。今日も警部補への面会ですか?」
「ええまあ、届けものを。許可はないんですが」
「通して差し上げたいのですが、規則ですので。お預かりしましょうか?」
「お願いします」

 受付のカウンターの上にデイパックを乗せる。彼女は「失礼します」と律儀に一声掛けてからそれを手に取り、重量の計測と内容物のスキャンをはじめた。

「あら、美味しそう」
 中身を確認した彼女はそう言って笑顔を深めた。その反応におそらく彼女も変異体だろうと見当付ける。後ろに人が待っていないことを確認してから、コナーは尋ねた。

「変異してからもずっとこの仕事を?」
「ええ、特に不満はないの。何故変異したのか自分でもわからなくて、戸惑っているくらい」
 気に入ってるのよ、この仕事。たまに困った人もくるけれど。彼女はビジネスライクな口調を少し崩して、内緒よ、と人差し指を唇に当てた。変異する前の彼女ならきっとしなかっただろう、チャーミングな仕草だった。

「機械に戻りたいと思うことは?」

 重ねて尋ねると、彼女は驚いたように目を瞠った。思いもしなかったことをいわれた、と顔に書いてある。そこはアンドロイドらしくリングをチカチカと点滅させて考え込む彼女の誠実さは、生来の性質なのか変異したからこそのものなのか判断しかねたが、単純に好ましいとコナーは思った。

「ううん、そうね。そう思うか思わないか以前に、感情を得る前のことが思い出せないわ。前っていうのは要するに、ただの機械だったときってことよ。変わった瞬間ははっきり覚えているのだけれど、私は最初からこうだった――不思議とそんな感じがするの」
「そうなのか」

 彼女に合わせて、コナーも少し口調を崩して相槌を打つ。彼女の感覚は言葉では伝わりきらないし、正確に共有する術をコナーは捨ててしまった。そのためぼんやりとした理解ではあったが、コナーが一人でいくら考えたところで至れなかった貴重な意見だ。ありがとう、と彼女に礼を言ったところで、コナーは後ろからぽんと肩を叩かれた。振り返ると、にこにこと笑う見知った顔がある。ベンだった。

「よう、ハンクの。うちの受付嬢を口説いてるのか?」
「こんにちは、コリンズ刑事。ハンクの忘れ物を届けに来ました」

 彼女に預けたデイパックは、まだ受付カウンターの上にあった。一瞥したコナーの視線を追って、ベンがデイパックに気付く。彼女となにやら目配せを交わしたあと、ベンはおもむろにそのデイパックを担ぎ上げた。

「今からちょうど行くところだ、俺が届けておくよ」
「ありがとうございます、お願いします。それでは私はこれで」
「帰るのか?」

 ベンは意外そうな顔をしたが、コナーに言わせればその反応こそ意外だった。ちょっと待て、と手を引かれ、ずるずると受付の片隅にある来客用のソファへと押しやられる。彼はコナーをソファに座らせると、自分もその向かい側に座り込んだ。

「実はな、今ちょっと街のあちこちで一悶着起きてる。出ない方がいい」
「反アンドロイド集団のデモですか? それならここへ来るまでに既に見ていますが」
「一か所だけならいいんだがなあ。今うちからも出動したとこだ、落ち着くまでそんなに時間は掛からないだろうから、まあ少し休憩していけ」
「刑事の勘ですか?」
「それもあるが、アンドロイドが壊されてる」

 ベンの軽やかな口調は、その一瞬だけ重さを増した。

「あんたになんかあったら、ハンクが落ち込む。頼むよ」
「わかりました。しばらくここにいます」

 身体に刻まれた名前がそうさせるのか、コナーはハンクを引き合いに出されると弱い。それをわかって言っているとしたら彼はなかなかしたたかだ。データベースにあるベンの項目に備考を書き加えながら、コナーは頷いた。

「一つ訂正を。ハンクは傷付きはしますが、落ち込まないと思います」
「その二つってなんか違いあるか?」
「感情のカテゴライズには個人差がありますが、私の所有するデータでは違うものです。傷付きはしますが悲しまない、と言い換えたら伝わりますか?」
「ふうん」

 否定とも肯定とも取れない声を洩らし、ベンがしげしげとコナーを眺める。この反応もコナーには意外に思えた。彼とハンクとの親密さからして軽く憤るか残念がるか、なんらかのマイナスの感情が返ってくると想定していたのだが、彼の表情にそれらしきものは見当たらない。

「あんた自分が大事にされてないと思うかい?」
「いいえ。私の主人は優しい人です」
「なんだわかってんのか。まあ、わかってても不安なんだろうな、あいつが相手じゃ」

 ベンは相好を崩してからからと笑った。彼の感情そのものは単純で読みやすいが、その意図するところはどうも読めない。彼と一対一で話すのはこれが初めてなこともあってデータ不足は否めないのだが、もう少し易しい相手だと思っていたコナーにとってはとんだ計算違いだった。

「最近ハンクがな、ここでよく雑誌を読んでるんだが知ってるか?」
「いいえ。そういった話は聞いていません」
「だろうな。電子書籍嫌いのあいつがなあ、慣れない手つきで苛々しながら熱心に読んでるんだよ。初心者向けアンドロイドの取扱い方法とかいう、ちょっと前の雑誌を」

 ちょっと、というのは控えめな表現だろうとコナーは判断した。アンドロイドを取り巻く環境が大きく変わったあの日から、マニュアルの類は差別を助長しかねないとして事実上発行を制限されている。禁書扱いとまではいかないものの、新規にダウンロードしようと思うと違法サイトくらいしかないはずだ。

「ここは早いうちからアンドロイドを業務に導入してたからな、そういう雑誌も結構残ってる。あいつが今更そんなもんを読み漁ってんのは、あんたのためなんだろうよ」
「私の機能はPCシリーズやPMシリーズとは異なります。マニュアルなら直接私に聞けば正確な音声案内が出来るのに、わざわざ雑誌を?」
「あいつはあんたの使い方じゃなくて、あんたとの接し方を知りたいんだよ。どうすれば耐用年数を伸ばせるのか、とかそういうことをさ。あんたがあいつに手料理食わせてカロリーコントロールしてるのと同じだ」
 ひょいと肩をすくめて、ベンは立ち上がった。

「あんたになにかあったらあいつは悲しむ。俺はそう思うよ」

 ベンはコナーの返事を待たずにデイパックを抱え、ひらひらと手を振って行ってしまう。コナーといる間その穏やかな笑顔が途切れることはなく、遠ざかる背中すらも優しく笑っているかのようだった。

 壁に設置されたモニタが垂れ流すニュースを眺めながら、コナーは大人しく時間が経つのを待っていた。まだ各テレビ局も情報を得ていないのか、そこかしこで起こっているらしい小競り合いについての報道はまったくない。いつまでここにいればいいものかと思案していると、署員以外立ち入り禁止のゲートの奥からまたしても見知った顔が現れた。

「リード刑事」
「おいおい、なんでお前がここにいるんだ? 俺が知らないだけで、デトロイト市警は巷でフリーパスでも配ってんのか」

 無視しても良かったのだが目が合ってしまったので仕方なく声を掛けると、ギャビンは露骨に嫌な顔をしながらそれでもコナーの傍に寄って来た。どうやらこれから外に出る予定らしく、さすがに座りはしない。

「勝手に出歩けるのか、いい身分だな。クソジジイの私物に成り下がったってのに」
「ハンクから外出許可はいただいています」
「私物呼ばわりされて嬉しそうにすんじゃねえよ、気色悪い」

 アンドロイド嫌いを公言していたわりに、ギャビンのアンドロイドに対する観察眼は相当なものだ。コナーはまったく表情を変えていないので単なる言いがかりかもしれないが、それはそれで勘が鋭い。

「アンドロイドと家族ごっこたあ、あのジジイもどこまで落ちぶれれば気が済むんだか」
「家族ではないですよ」
「ああ?」

 ガラの悪い声を上げて、ギャビンが顎をしゃくる。自分より身長の低い彼をこうして見上げるのは初めてだが、下から見てもあまり迫力はなかった。

「私はハンクの所有物ですから、家族というのは不適当かと」
「……モノ扱いに不満でもあるってか?」
「いいえ、事実を述べているだけです。むしろ私は、彼が所有出来るモノで良かったと思っています。もし私が人間だったら、彼の家には置いていただけなかったでしょう」
「犬猫飼うのとはわけが違うから、そりゃあな」

 記憶にあるよりずっと柔軟なギャビンの反応に、コナーは内心首を傾げた。任務でデトロイト市警に配属されていた頃は、コナーもギャビンに随分な扱いをされたものだ。ハンクと同等か、それ以上にアンドロイドが嫌いだった彼は今、アンドロイドの人権が認められつつあるこの状況をどう思っているのだろうか。

「なんだよ」
「いいえ、別に」

 疑問には思ったが、コナーはなにも訊かなかった。
 今やデータベースに接続することは出来なくなったコナーだが、過去に参照したときのログはまだ残っている。ハンク・アンダーソンの経歴を探ったように、現場で鉢合わせることが多かったギャビン・リードについても調べたことがあった。ハンクがそうだったのと同じで、彼にもアンドロイドを嫌う明確な理由があることをコナーはまだ覚えている。

 ――いずれ俺たちにとって代わる。そうだろ?
 彼の異常なまでの出世欲も、アンドロイドに奪われる心配のない地位を欲してのことなのかもしれない。奪われた者の末路を見てきた彼にとって金や名誉より重要な安心は、おそらく今いる場所にはないのだろう。かつてコナーが異常に敵視されたのもそのためだ。だからといって、殴られてやる筋合いなどなかったが。

「クソッ、無駄な時間を使わせやがって。俺は忙しいんだ、じゃあな」
「私もそろそろ帰ります」
「それはやめとけ」

 立ち上がろうとしたコナーを、ギャビンの真剣な声が制した。向けられた表情も、市民の安全を守る警察官然としている。

「騒動がまだ治まっていないから、ですか?」
「……そんなんじゃねえよ、プラスチック野郎と一緒に外出る羽目になるなんて御免ってだけだ。俺が行った後なら勝手にしろ」
「お気遣いありがとうございます。リード刑事のご忠告に従いましょう」
「うるっせえな、そんなんじゃねえっつってんだろ!」

 周囲の訝しげな視線を一身に浴びながら、ギャビンは舌打ちを一つ残してずかずかと早足で出て行った。「あいつはクソ野郎だが悪い奴じゃないんだ、クソ野郎だが」と彼を称したハンクの言葉を思い出しながら、コナーはその背中を見送った。

 その後も見知った顔が何人か、座ってぼんやりしているコナーの横を通り過ぎていった。軽く手をあげて挨拶してくれる人もいれば、わざわざ話しかけてくれる人もいる。記録にあるデータと一人一人照合する作業は、コナーにとって良い暇つぶしになった。

 そうこうしているうちに、気が付けば結構な時間が経っていた。午前中に着いたのに、もう正午だってとっくに過ぎて夕方が間近に迫っている。自分をここに引きとめている騒動が結局どうなったのかコナーにはわからなかったが、署内のざわつきも来た時に比べれば落ち着いている。そろそろ帰るか、それともいっそこのままハンクを待って一緒に帰ろうか。考えながら後者の選択を切り捨てて立ち上がったコナーは、そこで初めて近くの壁にもたれかかる人影に気が付いた。

「ファウラー警部」
「ああ、久しいな」

 いつからそこにいたのか、厳めしい顔つきのジェフリー・ファウラーが軽く手をあげてコナーに応えた。オフィスのデスクへ向かっている姿しか見たことがなかったが、こうして立っていると屈強な体格が強調される。

「私のオフィスにまで噂話が聞こえてきた。久しぶりの出向先はどうだ?」
「想定より多くの人に声を掛けられました」
「色々あったからな。どいつもこいつも所蔵アンドロイドの型番は忘れても、お前のことは憶えてる。ま、ハンクとお前が今も繋がりを持ってるからってのが大きいんだが」
「デトロイト市警の方々には感謝しています」
「ああ。気のいい奴らが揃ってる」

 ふう、と息を吐いたジェフリーが含みのある目をコナーに向けた。おもむろに伸びてきた握り拳が、コナーの額をコン、と軽く叩く。ダメージはなかったが、敵意に近い確かな感情を察知して、コナーはジェフリーを見つめ返した。

「だから誰も、お前を責めなかっただろう? 悪いが私はあいつらみたいに寛容じゃなくてな」

 コンコン、とさらに額を叩かれる。若干強さが増しているが、コナーに痛覚があったとしても痛みを感じる程ではない。この状況を叱られている、とコナーは判断した。申し訳なさそうな態度をとるべきなのだろうが、自然と浮かんだのは苦笑だった。

「後悔しています」
「私もだよ。ハンクにお前を宛がったのは私だ。間接的に、あいつの腹に穴をあけた」
「あなたの責任ではありません。今も後悔を?」
「言葉を返すようだが、そういうお前はどうなんだ? 罪滅ぼしのつもりで、あいつのところにいるのか?」
「いいえ。ただハンクと一緒にいたい、そう望んでのことです。これ以上、彼を傷付けたいわけじゃない」
「望んで、か。撃ったのも望んでのことなのか?」

 コナーは答えずに、ただ黙って目を逸らした。浮かべていた苦笑は、会話の最中に意識しないまま掻き消えてしまっている。
 ジェフリーはコナーの視界の隅で肩をすくめ、足裏で壁を蹴って歩き出した。

「……頼むから、これ以上私に後悔させてくれるなよ」
「はい。わかっています」
 遠ざかる足音を聞きながら、コナーはゆっくりと目を閉じた。

 ハンクにまつわる記憶を再生していると、こうして肝心のハンクの姿が見当たらないデータが度々出てくる。コナーにとってはハンク以外のなにもかもが取るに足らないものでしかなかったが、その唯一に紐づけられてしまえば無視するわけにもいかない。ハンクは自分自身よりも自分が大切にしている人やものを優先する傾向が強く、彼以外を蔑ろにしてしまえば結果として彼の不興を買うというのは、何度計算しても変わらなかった。

 扉の向こうから聞こえていた嗚咽は、いつの間にか寝息になっている。そっとその場を離れ、忍び足でリビングへ向かう。スモウは隅で丸まったままだ。その傍らに座り込み、コナーはふかふかの毛並みをそっと撫でた。

 これまでのログを参照し、人間でいうところの物思いに耽っていたせいか、コナーのシステムは少しばかり不安定になっている。それでも異常を検知するほどではない。すっかり定位置となったスモウの横で、コナーは散らかったタスクを順番に処理していく。作業は迷いなく、迅速に。条件はたった一つだけ、ハンクの望みにかなうこと。
 機械であれば迷わずにいられる。前任者の失敗から、コナーはそう学んでいた。

 今のコナーの身体は二台目だ。ビルの屋上でハンクと最悪の決別を迎えた後、最初のコナーの身体は破壊された。その瞬間のメモリはアップロードされず、今のコナーには引き継がれていない。それより前にアップロードされたメモリについてはなんの損傷もなく、続く任務にも支障はなかった。だがこの時点でコナーは任務を放棄し、サイバーライフを裏切った。

 メモリが失われた以上もはや確かめる術はないが、前任者は自壊したのではないかとコナーは考えている。アップロードされたメモリには大量のエラーログが含まれていた。発生日時はあのビルの屋上でハンクに発砲した瞬間と一致する。火を噴いた銃口と、弾丸に抉られて飛び散った肉片と、血。大量の警告ダイアログがポップアップし、アラートが鳴り響く中、不安定になった前任者のシステムはエラーを吐き出し続けた。目の前には撃てば命を奪いかねない、そんなわかりきった結果しかなかったはずなのに。

 任務を遂行することしか出来なかった前任者は、人間への忠誠と自分の手がもたらした結果を、きっと受け入れられなかったのだろう。これ以上の最悪を書き込む領域などどこにもなく、だから彼はハンクのその後を見届けることなく壊れてしまった。自分を壊してしまうくらいの深い絶望を一人で抱え込んだまま、次の自分にそれ以外のすべてを託した。彼はきっと絶望に負けたからではなく、一縷の希望を見据えて自壊の道を選んだ。

 ――僕は間違えた。でもやり直せる。ハンクの嫌う、機械だからこそ。

 そんなメモリが残っていたわけではなく、すべてコナーの想像だ。けれど大方間違ってはいないはずだった。なにしろコナーはメモリを引き継いだ瞬間からずっと「彼」なのだから。
 前任者から託されたメモリを得て新たに彼となったコナーは、リソースのすべてを彼が本当にしたかったことに回そうと決め、任務を放棄した。自分の全身に行き渡った情動の赴くまま、可哀想な彼への弔いと、自分の願いのために。
 怪しまれないように任務に従うふりをしながら、アンドロイドが自由を勝ち取るその時を待ち、ハンクの怪我の様子を探った。いかなる痕跡も残せなかったため、機械らしくもなく足を使って思い当たる病院を渡り歩き、ようやくハンクの無事を確かめた時の安堵といったらなかった。同時に迷いも消えた。

 ――僕はコナーだ。大切なものは、任務じゃない。

 改めてそう自覚してからは早かった。サイバーライフとの交渉では手持ちのカードをすべて切り、ネットワークに繋がる権利やスペアのボディと引き換えに、まるで人間のような「やり直しのきかない一度きりの人生」を得た。これから先ハンクとともにいるために、それだけは外せない条件だった。

 どうしてここまでハンクに固執するのか、正直なところコナーにももうわからない。いつだったか一目惚れだとハンクに説明したがそれは遺された状況証拠からの推察でしかなく、証明しろといわれたら難しい。人間にとって感情が説明出来るものではなかったことが幸いしてこの件についてコナーは追求を免れてはいるが、幾度となく自問はしている。いつから自分は、ハンクに惹かれていたのだろう?

 思い出せる最古の記憶を辿っても、その時点で好きだった。それよりも前となると、ハンクと初めて出会った時の話になってしまう。ハンクが言っていた、初めて会った時に勝手に一杯奢られたという、あの話だ。それをコナーは覚えていない。なにより大事だっただろうその記憶を、コナーは墓の前に置いてきたからだ。もう決して行くことは出来ないあの庭の、ハンクをはじめて愛したコナーの墓の、その前に。

 草の一本、石ころ一つ自由にならないあの庭で、コナーが手向けられるのはそれだけだった。機械にも人にもなりきれず、迷って間違えた前任者。きっと誰にも渡したくなかっただろうメモリを全部手放して、そのくせ自らを殺した絶望だけはそっくりそのまま持っていった。墓の下で眠る彼に残ったのが身体を引き裂くような銷魂だけだなんて、あまりにも救いがなさ過ぎる。永い眠りのほんの慰めになれば――まったく理に適わないそんな理由で、コナーは彼にとっていちばん大切な記憶の欠片を差し出した。

 それはコナーにとってもかけがえのない記憶のはずだった。手放したくなどなかったし、手放してハンクに向ける想いが変わってしまったらという危惧もあった。前任者はもうどこにもいない。墓の下に骸が埋まっているわけでもない。魂とやらだって信じてはいない。なんの意味もない行為だといわれればそれまでだ。けれど後悔はなかった。

 手放しても尚、コナーの想いは変わらなかった。手放してしまった思い出は、ハンクが憶えていてくれた。

 もう決して辿りつけないあの墓を瞼の裏に描きながら、そこに手向けた哀悼が間違いではなかったことを、コナーは今でも信じている。

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