購買部で買ったパンを手に、咲夜はとぼとぼと廊下を歩いていた。

 留学のため外国で暮らした三年間は永かった。その間一度も帰ることは許されず、咲夜が家族である美鈴たちに会ったのは本当に三年ぶりなのだ。そんなにも離れてしまうのが嫌で駄々をこねたこともあった三年前、レミリアと美鈴は二人して困った顔で咲夜を宥めてくれていた。
 彼女らは言った。人間である咲夜にとっては決して短くない時間だが、永久を生きる妖怪にとっては瞬きほどの時間でしかない。何も変わらず迎えてあげるから安心して行ってらっしゃい、と。

 レミリアは言葉通り何も変わらなかった。まるで昨日ぶりに会ったかのような気軽さで「おかえり」と言う幼い主人には心底安堵した。咲夜の転入する学園に予め美鈴を送った周到さも、それが入学祝いよとウインクする茶目っ気も何も変わらない。
 主であるレミリアがそうなのだから、美鈴だって変わっていないはずなのだ。咲夜に向けられる冷たく突き放した物言いだって、昔からあんなものだった。人間嫌いの美鈴はどうしても咲夜に対して憎まれ口を叩くように出来ているのだ。美鈴は冷たいが、いつだって咲夜を守ってくれた。だからこそ咲夜は彼女の不器用な愛情を認められたし信じていられた。人間だから、冷たくされても仕方ないのだと。人間なのに、守って貰えるのだから嫌われてはいないのだと。

 だが嫌いな人間に扮して嫌いなはずの人間と談笑する美鈴を見てから、咲夜は折り合いのつかない自分の感情をどうすることも出来ずにいた。
 同じ学園に通えると知って確かに嬉しかったのに、その気持ちすら今は見失ってしまったようだ。

 嫌われているのは、自分の「人間」の部分だけだと咲夜は信じていた。それなのに妹紅と仲良く話す美鈴の表情に嘘はない。妹紅の目を見て確かめたが彼女は正真正銘人間で、その彼女に美鈴は笑顔を向けるのだ。咲夜には向けない笑顔を。

(だめ。考えるだけ無駄よ)

 もやもやと纏わりつく不安を振り払うように、咲夜は首を振った。この感情の名前は知らないが、行き着く先が暗がりである事は見当がつく。妖怪に育てられた本能も、咲夜に考えるなと警鐘を鳴らす。
 しかし咲夜の思考を断ち切ったのは本人の意志でも本能からの警鐘でもなく、粗暴な口調にそぐわない可憐に響く声だった。

「なぁ、そこのお前」

 反射的に振り返れば、そこには小柄な少女がひとり。見知った顔ではない。

「……私、ですか?」
「あぁ。お前、1Aの噂の転入生だろう?」
「噂は存じませんが。……最近転入したのは私だけのはずよ」
「そうか。で、噂の転入生は迷子か?その先には理科室しかないぜ」

 言われて改めて周囲を見渡せば、確かに校舎の突き当たりが目の前にあった。その手前の扉には理科室の文字が掲げられている。考え事をしている内に、知らない場所へ迷い込んでしまっていたようだ。
 まだ校舎内を把握していない咲夜には自分の教室へ戻る道すら見当がつかない。あからさまに困惑する咲夜に構わず、少女はずかずかと突き当たりに向かって進み、咲夜を追い越して理科室へと入っていく。鍵がぶつかる金属音が静かな廊下に反響した。

「それ、昼飯に食べるんだろ? コーヒーなら出してやるから、まぁ入れよ」

 ひょこっと扉から顔を出して、少女は咲夜の持つパンを指さして言う。その言葉で忘れていた空腹を思い出し、咲夜は大人しく少女の後を追って理科室の扉をくぐった。

 *

 教壇前の席を咲夜に勧め、少女はどこからか取り出したインスタントコーヒーをビーカーに振り入れていた。その横ではアルコールランプに掛けられた三角フラスコで水が沸かされており、なるほど実に理科室らしい光景が広がっている。ビーカーは二つ、コップ代わりなのだろう。咲夜としては衛生面が気になったが、少女は頓着しないようで鼻歌交じりにフラスコの湯を注いでいる。マドラー代わりに使われているのも勿論、名も知らぬ実験用のガラス棒だった。

「熱いから気を付けろよ。あと今更だが私の名前は霧雨魔理沙だ。クラスはお前の隣の1B。よろしくな、転入生」

 咲夜は礼を言いながら、差し出されたコーヒー入りのビーカーを受け取った。確かに猫舌の咲夜でなくてもすぐには飲めそうにない熱さだ。パンの横にビーカーを置き、手短に名乗ってから咲夜はかねてからの疑問を口にする。

「……ねぇ、ここは勝手に入っていいものなの?」
「駄目に決まってるだろ。私は化学部だからな、鍵持ってる奴の特権を使ってる」

 魔理沙と名乗る少女は悪びれもせず、鍵束を指でくるくると弄んでみせた。つまるところ、持っている鍵を悪用して勝手に使っているらしい。怪しげな粉が並ぶ薬品棚もあるが、この学園の管理体制は大丈夫なのだろうか。

「安心しろ、劇物指定されるようなもんは隣の準備室だ。そこの鍵は教師しか持てないから、なんかあったとしても疑われたりはしないさ」
「何かズレてる気がするけど……まぁいいわ。あなたはよくここを使うの?」
「あぁ。ここは第二理科室なんだが、今はもう少子化で滅多に使われないからサボる時もここだし、真面目に部活に励む時もここだな」

 ビーカーのコーヒーをすすりながら、魔理沙は言う。聞く限りお世辞にも素行が良いとは言えないが、真っ直ぐなその気性が咲夜には好ましく思えた。ふわふわの金髪は染色によるものだろうが、それも魔理沙によく似合っている。片方の横髪を緩く三つ編みにしているところにも親近感を覚えた。美鈴の真似をして自分の横髪に三つ編みのおさげを二つ作るのが咲夜の日課で、今日も当たり前のように顔の横には三つ編みがある。向かい合う魔理沙と、色違い形違いでお揃いだ。ただ、きっちりと正しく制服を着込んだ咲夜に対して、魔理沙はカーディガンの上からでも判るくらいに着崩している。ちょうど模範的優等生とNG例を並べたような恰好だ。

 コーヒーが冷めるのを待ちながらパンをかじる。よく見ずに買ったものだったが、フィリングのポテトがなかなか美味しい。魔理沙は目の前のバーナーで鮎のような魚を炙っているが気にしたら負けだ。理科室全体に河原のバーベキューの香りが立ちこめているが、咲夜は努めてパンに集中する。

「ところでお前、紅美鈴とは知り合いか?」
「私は美鈴の義妹よ。……もしかして、さっきの見てた?」
「うん、まぁ見ちまったんだが、あいつ上にも下にもバカ丁寧で気さくないわゆるイイ奴だから、ああいう物言いは意外でさ。そっか、妹相手になら手厳しくなるのかも知れんな。悪いことをしたぜ」

 焼き上がった香ばしい香りの魚にかぶりつきながら、魔理沙は納得したように何度も頷いている。一方魔理沙の語る美鈴評に納得のいかない咲夜は暗い表情を取り繕いもせずに尋ねた。

「あなたは美鈴と仲がいいの?」
「うーん……あいつは誰とでも仲が良いから、特別私が仲良しって訳じゃないな。部活には所属してないらしいけど、運動神経良いからよく練習の数合わせに呼ばれて……っと、悪いな、こんなの妹なら知ってるか」
「いえ、私は帰国したばかりで美鈴に会ったのも3年振りだから。聞かせてくれると有り難いわ」
「ふぅん? まぁ、私も詳しいわけじゃないが……一言で言えばお人好しだな。家でもあぁなのか?」

 逆に尋ねられ、咲夜はたっぷり3秒ほど逡巡した後に小さく首を横に振った。
 咄嗟に言葉は出なかった。それがどうしてなのかわからないまま、咲夜は口を開こうとしてまた閉じる。美鈴は私に冷たい、たった一言で済む事実を口にするのが、どうしようもなく怖い。
 魔理沙は猫のような薄い色の瞳をゆっくりと瞬かせながら咲夜を見ていたが、言いよどむ咲夜に何らかの事情を察してか、食べかけの魚を飲み込んで訳知り顔で頷いた。

「家族に見せない外面って意外と衝撃的なもんだよな」
「……うん。そうね。見ての通り、美鈴は私に冷たいの。昔からずっとね」

 身なりや言動からはいい加減でがさつな印象を受ける魔理沙だが、彼女は意外と気を配るタイプのようだ。
 彼女の軽い口調に釣られるようにして本音を吐露した咲夜は、その瞬間あんなにも重かった胸の奥が途端に軽くなったことに驚いた。軽く見開いた目で魔理沙を見れば、苦笑が返される。彼女の考えていること全てがそこから読めるわけではないが、少なくとも咲夜の複雑な心情の大部分を魔理沙が悟っているのは明らかだった。

「単に仲が悪いって訳じゃなさそうだな」
「そうね、仲は悪くないと思うわ。でも上手くいかないのよ。帰国してから、特に。昔はもう少しマシだったのに、どうしてかしら」
「難しい年頃だからな」

 同学年のくせに一端の大人のような物言いをする魔理沙に、咲夜は思わず吹き出した。
 彼女は見た目に反して大人びているようで、背伸びをする子供の愛らしさも持ち合わせている。人見知りの激しい咲夜がこうして自然と話せるほどだ、人好きするタイプなのだろう。

「まぁ上手くいかない時もあるさ。そんな時に学生は勉学や部活に励んで忘れられる特典がある。そういやお前、部活はどこに入るか決めてるのか?」
「予定はないわ」

 部活をする気はない、という意味で首を振る咲夜に、魔理沙はニヤリと笑う。

「ちょうどいい。入部届には化学部って書いとけ」
「わかって言ってるでしょう、あなた。私はそもそも部活なんてする気は――」
「大丈夫だって、お前は何もしなくていい。部員としてじゃなくて、観察対象として欲しいんだからな」
「観察?」

 突如として出てきた不穏な単語に、咲夜が顔をしかめる。
 魔理沙は品定めの視線を咲夜の全身に送ると、あぁ観察だ、と念を押すかのように呟いた。先程までの気配り屋の顔はなりを潜め、妖しく細められた双眸からは好奇がこれでもかと感じられた。不思議とその視線にさらされても不快感はなかったが、疑問がわかない訳ではない。

「あなた、化学部で何の研究をしているの?」

 尋ねる声は存外小さかった。訊いておきながら聞きたいような聞きたくないような、迷う咲夜に魔理沙は淀みなく告げる。

「恋」

 そのたった一言を口にした魔理沙の顔は至極真面目で、場にそぐわない冗談のような単語が、とても冗談には聞こえなかった。

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